エネルギーへの取り組み

原子力発電所と柏崎

柏崎青年会議所と原子力発電所との関わり

柏崎青年会議所と東京電力柏崎刈羽原子力発電所との過去・現在のかかわり合いをまとめてみたいと思います。
青年会議所の世代交代の中で失われつつある情報・認識を掘り起こしていきます。
先人達は何を感じどう行動してきたのか?そして私達は何を感じどう行動しなければならないのか?
詳細は随時更新していきますので繰り返しご覧ください。

はじめに

1971年柏崎JCは、日本青年会議所史上初めての「原子力発電所建設推進決議」をした。それは1968年柏崎JCが発刊した「社会開発計画」の具体的な実践であった。以来1985年柏崎刈羽原子力発電所第1号機が営業運転を開始するまでの18年間、柏崎JCはこの誘致、建設推進こそが、柏崎の「まちづくり」の一つの大きなバネになることを確信し、息の長い運動を展開してきた。

時代背景

柏崎市は新潟県のほぼ中央、風光明媚な海岸に面し、鎌倉時代以来の宿場町港町、江戸時代には廻船縮の集散地として、又明治大正時代には全国有数の石油の町として栄えてきた。商業工業ともにバランスのとれた、しかも県内屈指の教育文化スポーツ都市として発展してきた。しかし昭和23年の人口9万7千人をピークに昭和30年代後半、40年代前半には地理的条件、産業基盤の未整備などで国の高度経済成長に乗りおくれ、人口は7万人台に落ちこみ、停滞の感はいなめなかった。行政にとっても、民間にとっても、この柏崎の後進性脱却が大きな課題の一つとなっていたのである。

可能性を求めて

1967年柏崎JC創立10周年を記念して行われた、第1回「市民意識調査社会開発アンケート」をもとに翌1968年「社会開発計画」を発表。7つの提言をした。その第1番目が「荒浜砂丘地総合利用のために開発事業団を」というものであった。柏崎の北東に位置する広大な砂丘地の開発利用が、柏崎のこれからの発展のため、不可欠であると考えたからである。この1968年の提言が、柏崎JCがその後の4半世紀以上にわたって原子力発電所問題に取り組む第一歩となったのである。

1969年東京電力が柏崎進出を発表。

1970年柏崎JCは原発研究会を発足させ勉強会を開始した。これはその後、国家問題委員会、さらには1983年全国700余のJCの中で唯一といえる新設のエネルギー問題委員会に引きつがれ現在に至っている。

1971年9月柏崎JCは臨時総会を開き、さきの荒浜砂丘地開発の提言を実現するために、最も可能性があるものとして、過去2年間の調査研究をふまえて、「原子力発電所建設推進決議」をしたのである。当時賛否両論うずまくなかで、自らの意志を積極的に表明し、これを「柏崎のまちづくり」に役立てようと、活動を開始した最初の民間団体となったのである。

活動の展開

推進決議に続き、この年末第1号の市民PR版「柏崎青年会議所新聞」を発行、市内25,000全世帯に「原子力発電所の必要性と問題点」と題して理解を求めたのである。しかし1970年頃から反対運動は激しくなり、いたずらに市民の不安をかりたてる様なチラシが配布され一般市民にとって適切な判断を下す情報も知識も提供されず、民間サイドでの盛り上がりは、やや欠ける状況にあった。

1972年柏崎JCは、地元荒浜地内の青年達、工業界の青年達とともに「原子力発電所建設と地域開発を推進する会」に参加、地域住民と行政との間のパイプ役をはたすと同時に、正確な情報の提供に務めた。

1973年JCデー統一事業として「一日市議会」を開催、市長を始め市役所全課長の出席を求めて、柏崎の「まちづくり」について、市民とともに考える機会をつくった。

1975年日本青年会議所社会開発委員会を迎え、あわせて新潟ブロック協議会公式訪問例会において、「原子力発電所と地域開発を考える」パネルディスカッションを開催した。

1976年には「文書陳述」、「推進県民大会」、「推進市民大会」に積極的に参加し、意見を述べ、又「原発推進団体連絡協議会」の結成時には有力メンバーとして迎えられたのである。

1978年原子力発電所建設は本工事に入った。

まちづくりにむけて

創立10周年で、私達は「社会開発計画」に着手したように、1977年創立20周年を迎えて10年前の提言をアフターフォローするため、第2回目の「市民意識調査」を実施、翌1978年「柏崎2001 21世紀への試案」を刊行した。

10年前提案した荒浜砂丘地開発は、その緒についたのである。今後は具体的な「まちづくり」の提言をしなければならない。次の二つを基本的なテーマとして掲げた。すなわち
(1)「自然を生かした活気あふれる町づくりをみんなで考えよう」
(2)「健康で住みよい福祉の町をつくろう」
である。こうしたなかで、原子力発電所の建設は進み、私達の従来からの取り組み方も変わってきた。町づくりの輪を広げていかなくてはならない。

1982年市民400名を集めて原発シンポジウム「原発と地域開発を考える」を開催。

1983年JCデー統一事業として「ふるさと柏崎をみなおそう、新しい町づくりのために」パネルディスカッション、1984年「ルール116市町村長サミット」、 1985年地域社会における青年の役割パネルディスカッションをそれぞれ開催し、もう一度足元から、見つめなおし明日の柏崎のために何をなすべきかを市民ともども語り合った。
私達の推進活動は冒頭にも述べたように、原発を誘致し、建設することが最終目的ではなく、これを社会開発のために役立てたいと考えたからである。

今後の課題

1984年昭和60年代の柏崎市の「長期発展計画」のため、市に「都市づくり審議会」が設置され、JCも多くの会員を送った。
「柏崎2001」で提言した総合博物館は既に着工し、又、マリーナ、運動公園、総合病院の充実等などの提言がこの「新長期発展計画」にもりこまれた。この計画書策定で、私達柏崎JCが18年にわたって継続してきた原発建設推進活動が実を結んでいくことを確信している。しかし当然のことながら「まちづくり」に終わりはないのである。 私達は16年前、「社会開発計画」でJCが投じた「荒浜砂丘地の開発」という一石が、市民の間に大きな輪となって広がり、柏崎の「まちづくり」に大きく貢献できたと自負している。そして10年毎に行ってきた市民意識調査は、やがて第3回目が実施されることになろう。(青年会議所記念誌より、続く…。)