まちしるべ事業

「まちしるべ」事業とは

「まちしるべ」事業とは柏崎の魅力をアピールする標識設置事業です。

標識によってふるさと柏崎全域の「宝物」に光をあてようという事業です。標識のデザインは柏崎JCのメンバーによって創られました。
創立40周年記念事業としてメンバーの総意のもと、創立50周年までの10年間にわたり、50基の「まちしるべ」を設置する事業を実施しました。

まちしるべ

宣  言

私たちは、次世代にすばらしいふるさとを継承していくため10年間にわたり、
50基以上の「まちしるべ」を柏崎全域に設置する。
ふるさとの誇りをもって、ここに「まちしるべ」事業の開始を宣言する。

1997年11月6日 社団法人柏崎青年会議所

まちしるべ紹介

柏崎全域に設置されたまちしるべをご紹介します。地図をクリックしていただくとGoogleマップで地図が表示されます。

かしわの大樹

1.かしわの大樹

今から700年ほど昔、鵜川の河口から少し上流のあたりに漁師の船着場がありました。そこから見える向こう岸になんご沢(レンガ坂)、その頂上付近には「大きなかしわの木」がそびえ、遠く海上より手こぎの船でかしわのさきをゆく漁師の大切な目印となっていました。
この「かしわの大樹」が柏崎の名前の由来ともいわれています。

番神山政三郎

2.番神山政三郎

「相撲じゃ番神、柔道じゃ石黒」と柏崎の民謡・三階節にも唄われた番神山政三郎は、柏崎市岬町(現在の番神)出身の力士です。初土俵は1927年1月、最高位は前頭二枚目で1934年5月の天覧相撲で優勝しました。
番神山が相撲界に入った昭和初期は世界的不況の暗い時代でしたが、そこに彗星のごとく番神山が登場しました。地元柏崎刈羽の人々のみならず、新潟県民も大変誇りに思い、世の不況を吹き飛ばすほどに熱狂し、声援を送りました。

鬼穴

3.鬼穴

その昔、この穴に赤鬼が住んでいました。鬼は娘を捕らえては食べ、村人たちを苦しめたので、神様に鬼を追っ払ってもらおうと、下宿(今の番神)の番神さんにお願いしました。番神さんは29人の仏様を従え、うちわ太鼓を打ちならし声を張り上げ、お題目をとなえて穴に近づきました。太鼓の音と仏様の声に、赤鬼は穴から逃げていきましたとさ。

松田伝十郎生誕地

4.松田伝十郎生誕地

樺太海峡の第一発見者である松田伝十郎は、1768年に鉢崎村(現在の米山町)の浅貝家に生まれ、13歳の時に幕臣松田家の養子となりました。のちに北海道松前奉行所勤務になり、1808年に間宮林蔵と共に樺太の探検に出かけ、林蔵より早く樺太海峡を発見、「カラフトは離島なり、大日本国国境と見極めたり」と宣言しました。
ここは、聖ヶ鼻など伝説の宝庫でもあります。かつて鉢先関所が置かれ、俳人芭蕉が泊まった「たわら屋」跡が残されています。

鴨丸の剣

5.鴨丸の剣

天平13年(741)、愛媛大山祇神社より分祀された三島神社には、神宝の一つとして剣が祀られていました。保安4年(1123)、この剣が盗まれましたが、盗賊は神罰により逃げる途中、南にある延命池で溺れてしまいました。
一羽の鴨がこの池の底から剣をくわえて飛び立ち、南東の丘に落としました。剣は地中深く沈み、それ以来「延命池」を「鴨くぐり」と呼び、剣が沈んだ所に「鴨八幡宮」を祀り、この辺りを「剣野」と呼ぶようになりました。

弘法大師の塩水井戸

6.弘法大師の塩水井戸

ある夏の夕暮れ、一人の旅の僧侶が岩の入を訪ねて、一軒の貧しい家に一夜を乞いました。老婆は「お宿はかまいませんが、一飯をさしあげようにも味噌も塩も切れ申しましたが。」と答えました。その夜、老婆の心づくしの食事も「塩気なしの芋粥」でしたが、旅の僧侶は快く馳走になりました。
翌朝、老婆を庭先に誘った旅の僧侶が、手に持った錫杖を力いっぱい大地につきさすと、その先から渾々と湧き出たのがこの塩水です。旅の僧侶は「弘法大師」でありました。

藤井城址

7.藤井城址

江戸時代のはじめ、ここに城がありました。城主の稲垣平右衛門尉重綱は、大阪夏の陣、冬の陣で手柄をおさめ、徳川家康からほうびとしてこの城をいただき、その後、大阪城代まで出世しました。 藤井城のあった地は「豊岡」と呼ばれ、典型的な平城です。城主が二年余で三条に移封され、完成はしませんでしたが、城下町としての名ごりが、大手門、鍛冶屋敷、足軽屋敷、うまやなどの地名にのこり、碁盤目状の区画が当時の面影を伝えています。殿様が大切にしていた観音さんが、城址の古井戸から出てきたという伝説ものこっています。

不動院の龍燈木

8.不動院の龍燈木

この寺の縁起によれば、寺は平安時代に建立され、拘留孫佛(阿弥陀如来)が本尊様として安置されています。 昔、村の人たちが朝早く起きて、別山川から田んぼに引く水をてっぽうで上げていると、明けの明星のように、光るものが東の空から西の空へ流れていきました。これは龍神様が燈を献じたものに違いないと信じました。このよろんごの木にときどき龍神様が燈をあげたことから、「龍燈木」と呼ばれるようになりました。

春日陣屋跡

9.春日陣屋跡

春日は昔から肥沃の地として知られ、江戸時代には幕府の直轄領を経て、旗本安藤出雲守の所領となり、春日陣屋が設けられました。
12か村からの年貢米を収める蔵が立ち並び、物流拠点としても栄えましたが、春日騒動の舞台にもなり、多くの領民が犠牲となった悲劇を現代に伝えています。
その後、春日陣屋跡には馬市が設けられ、椎谷馬市と並ぶほどの規模で、その流れはえんま市にも受け継がれています。

日本の製油発祥の地

10.日本の製油発祥の地

日本書紀に「越の国」の「燃える水」の記述があるように、私たちの地域は石油と深いかかわりを持ち、かつて日本石油の本社が置かれるなど、近代産業の基礎をつくりました。
日本で初めて製油が行われたのは、1852年のことです。ここ半田・阿部家の地内で、阿部新左衛門が実弟の西村輝一と協力し、失敗を重ねながらも分溜に成功しました。その方法は、焼酎蒸留法を工夫した三斗釜を用いる独創的なもので、柏崎人のフロンティア精神を見ることができます。

出壺の水と谷川新田

11.出壺の水と谷川新田

「出壺の水は、柏崎を代表する名水の一つで、県の名水百選にも選ばれました。黒姫山のブナ林を通して湧き出る清水で、春先には水量が毎時1万トンを越え、水の美味しさと豊かさを私たちに教えてくれています。
江戸時代の開墾事業は、岩盤を掘り進む難工事のため何度も中断しましたが、谷津川津兵衛がついに事業を完成させ、谷川新田にその名を残しました。開拓者たちの思いがこもった新田は、まさに美田の象徴ともいえます。

木喰上人と安住寺

12.木喰上人と安住寺

木喰上人が、曹洞宗の古刹・安住寺を訪れたのは、江戸時代1804年のことで、87歳という高齢にも関わらず、約1ヶ月間で三十三観音を彫り上げました。
人々が寝静まった深夜に、かすかな線香の明かりをたよりにノミをふるう超人的な彫仏だったといわれています。
木喰仏の芸術性が評価されるのは、大正時代になってからで、同寺でも馬頭観音を除く32体に、心ない仏師の手が加えられたのは残念なことです。

毛利元就ルーツの地

13.毛利元就ルーツの地

佐橋神社は、佐橋庄の庄園居館のあった場所で、ここを拠点に7か村に及ぶ広大な領地を経営し、現在の「鯖石」の語源になりました。
鎌倉時代、源頼朝の重臣・大江広元の孫にあたる毛利経光がこの丘に移り住み、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地になったことでも知られています。

水源の里 谷根

14.水源の里 谷根

柏崎は、水源池の建設に見られるように早くから上水道の確保に取り組み、その先進性は、谷根ダムと赤岩ダムの建設に引き継がれました。分水嶺までの集水地域はすべて柏崎市が所有しており、原水汚染の心配が全くない環境は全国から注目を集め、市民においしい水を供給し続ける谷根は、「水源の里」として親しまれています。
ダム建設時の残土で造成され、地元の人たちが植樹をしたここビュー米峰は、水と緑の大切さを市民に語りかけます。

上条城址

15.上条城址

上条城は、戦国時代の政治、戦略拠点として築城された館城で、直江津に置かれた国府を補佐する成長の役割を持っていました。関東管領の血筋を引く越後守護上杉家の分家・上条氏が城主をつとめ、上杉景勝を支えた上条弥五郎が有名です。
標高15メートルほどの丘陵で、三方を山に囲まれ、黒滝城や古町城の山城と密接な関連がありました。本丸や二の丸、空堀跡などに当時の面影を残し、御殿橋や弥五郎橋の地名に歴史を刻んでいます。
その後も、上条校や進脩館が建てられ、教育や青年活動の拠点となりました。

白竜と義経

16.白竜と義経

 米山峠で山賊に襲われた源義経と弁慶主従は、道無き道を逃げ、鏡が沖という湖の淵にたどり着きました。追ってくる山賊たち、けれど湖を渡る船がありません。義経が一心不乱に祈ると、湖から白い竜が「私の背中にお乗りなさい」と現れ、義経たちをのせ、湖面を滑るように対岸へと逃しました。村人たちは白竜の霊験をたたえ、着岸の地に白竜神社を建て、義経が馬をつないだ木を御神木にしました。
 また、近年までこのあたりは「不寝見塘(ねずみとう)」と呼ばれ、水不足の年などは寝ずに水の番をしたそうです。

かたがり松の京参り

17.かたがり松の京参り

「昔、かたがり松が若い女の姿を借りて京都見物に出かけ、遊びすぎてお金を使い果してしまいました。困ったかたがり松は通りがかった同郷の五郎作に「必ず約束は守ります」と五両を借り、無事に柏崎に帰ることができました。
茨目に帰った五郎作は約束の日にここにくると、お金の袋がぶら下がっていて、枝をふるわせ、お礼を言っているかのようでした。
 かたがり松は柏崎の玄関口にあり、笠をつけて大枝を傾け、米山を背景にした気品のある姿で親しまれました。
1976年静かに姿を消しましたが、碑が白山神社に残っています。

団子山

18.団子山

団子山は、戦前には桃や梨などの果樹園、戦後はいちご園としてにぎわい、また春には花見、秋には芋掘り、冬にはスキーを楽しむなど、市民に親しまれたました。
開拓者の品田弥三吉の屋号「だんご」から、このように呼ばれたそうです。
柏崎は、分岐砂丘の上にできた町で、砂丘の砂が飛ばされて標高15mの団子山ができました。当時はここから海を望むことができましたが、1970年代半ば、開発によって削られ、現在の街並みに姿を変えました。

松平定敬公本陣跡

19.松平定敬公本陣跡

松平定敬は、幕末の桑名藩主で、1864年から4年間京都所司代を務め、15代将軍・徳川慶喜や実兄で京都守護職の松平容保、新選組とともに、動乱の時代を駆け抜けました。
鳥羽・伏見の戦いの後、江戸へ脱出した定敬は、桑名藩の分領である柏崎に入り、ここ勝願寺に本陣を敷いて鯨波戦争が開戦、さらに会津若松や函館・五稜郭へ転戦しました。戦死した藩士の追悼に心を砕き、法要のため三度勝願寺を訪れ、戦没碑を建立しています。
同寺の山号額をはじめ、柏崎小、比角小の校名額も定敬が書いたもので、晩年は日光東照宮宮司を務めました。

柏崎の恩人 星野藤兵衛

20.柏崎の恩人 星野藤兵衛

豪商であり、勤皇の士といわれた星野藤兵衛は、北陸戊辰戦争の際、新政府軍と旧政府軍に働きかけ、柏崎を戦火から救うために奔走しました。1868年の鯨波戦争で鯨波村は全焼しましたが、柏崎町は兵火から逃れ、山形有朋、黒田清隆に率いられた新政府軍は妙行寺に入り、本陣としました。
この間、藤兵衛は兵糧92万食をはじめとする軍資を提供し、有名な長岡、会津の戦闘もここを本陣として行われました。妙行寺には、藤兵衛をはじめ加賀藩士の墓や、駐屯兵の落書きが本堂に残されています。

漁網発祥の地・荒浜のあぞ網

21.漁網発祥の地・荒浜のあぞ網

越後荒浜は、日本三大漁網発祥の地のひとつに数えられています。
幕末、荒浜からあぞ網を北海道・江差へ持ち込み、原始的だった北海道のニシン漁は飛躍的に発展しました。あぞ網は麻でできた丈夫な漁網で、最盛期には荒浜を中心に刈羽、三島に及ぶ約2000世帯が製網に従事しました。
あぞ網を北海道に持ち込んだのは、荒浜村の豪商・牧口庄三郎です。
当時の北海道との交易は、手漕ぎの船(のち北前船)による命がけのもので、航海を終えるのに約三ヶ月を要しました。牧口氏は柏崎人の開拓精神の原点であり、その後多くの人々が北海道へ向かうきっかけとなりました。

米山検校

22.米山検校

米山検校は東長鳥・杉平の山上家に生まれ、幼くして光を失いましたが、逆境の中苦労して江戸に出て、杉山流鍼道を極めました。努力と才能が水戸光圀公に認められ、その後、盲人官位最高の「検校」にのぼりつめました。
富を蓄えながらも質素倹約の人で、ふるさと長鳥郷が大飢饉の際には救援米を送り、当時の御礼塔が今でも残されています。
臨終の直前、「親の財産をあてにするな」と証文に火をつけて灰にし、我が子に独立自尊を教え、その精神はひ孫である勝海舟に受け継がれました。

三階節

23.三階節

「米山さんから雲がでた・・・」の歌詞で全国に知られて三階節は、十代将軍徳川家治の時代に盆踊り唄として流行しました。三階節の名は、仏教用語の「三界」からとも、また同じ文句を三回繰り返すからともいわれます。ここ専福寺三代目のお坊さん「しげさ」の法話は大変うまく、近く人々が説教のありがたさをたたえたのが始まりだということです。
ノーベル文学賞を受賞した川端康成の名作「雪国」にも、三階節が登場するシーンがあり、詩情の世界に彩りをそえています。

最後の聖域 鵜川

24.最後の聖域 鵜川

ここ鵜川地区は、水源の里であり、天領の地でもありました。黒姫山、兜巾山、尾神岳のブナ林から流れ出た豊富できれいな水のおかげで、ゲンジボタルやハッチョウトンボ、ミズバショウやリュウキンカなどの貴重な動植物が生き、四季折々のすばらしい自然の景観を残し、最後の聖域(サンクチュアリ)を形成しています。
古歌舞伎の源流として日本の宝になっている綾子舞は、この聖域の磁力によって引き寄せられ、大切に守られてきたのではないでしょうか。

松平定信とお台場

25.松平定信とお台場

8代将軍吉宗の孫として、江戸時代に寛政の改革を行なった老中・松平定信は、本領白河とここ柏崎の地を治めていました。また、優れた文人でもあり、「楽翁公」として今も柏崎高校の校歌に歌い親しまれています。開国を迫る諸外国の足音にいち早く気づいた定信は、自らしたためた「柏崎沿海海防司令書」を柏崎陣屋へ送り、海への備えを指示しました。その後、この美しい海岸線には多数の台場(砲台)が築かれ、対岸松ヶ崎でも遠く水平線をにらみ続けていたということです。

うるはしき尼眠る寺〜貞心尼と吉野秀雄〜

26.うるはしき尼眠る寺〜貞心尼と吉野秀雄〜

越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ
うるはしき尼なりきとふ山藤の短き房を墓にたむけぬ

この歌を、ここ洞雲寺で詠んだ昭和期の代表歌人・吉野秀雄は1902年群馬県高崎市で生まれました。祖父が比角村、母が野田村の出身だったことから、柏崎の文化人と交流を深めました。歌人として良寛、貞心尼を敬慕していた秀雄は、何度も洞雲寺を訪れています。山上の墓前に歌をたむけ、美しく聡明であった聖愛の人を偲んだ光景がうかんできます。

刈羽村と桃

27.刈羽村と桃

嘉永5年(1852)、下高町の塚田源太夫は不毛の砂丘地の開拓を志し、砂丘は桃の栽培に適しているという話を聞いて、自ら栽培技術の研究と荒地の開墾をしたのが始まりといわれています。大正時代には最盛期を迎え、日本でも有数な桃の産地として知られるようになりました。昭和に入ると、花の咲く季節には県内外から花見客が押し寄せ、柏崎と荒浜駅の間に「桃林駅」という臨時の駅までできるほど賑わいました。現在では村花にも指定され、桃にちなんだ催しが行われるなど、村のシンボルになっています。

さとうなめ地蔵さん

28.さとうなめ地蔵さん

金泉寺の「さとうなめ地蔵さん」は口の周りが黒く変色しています。古くからこのお地蔵さんはたくさんの人々の、たくさんの願いを叶えてきました。
その御礼に、昔は大変貴重であった砂糖をなめていただいたのです。
今でも時々、誰がお供えしたのか、甘いお菓子が置いてあります。
時代が変わっても素朴な願い事を叶えてくださるのでしょう。合格祈願、またどういうわけか歯の痛みにもご利益があるそうです。今日も「さとうなめ地蔵さん」は静かに微笑み、「よかった、よかった」と皆さんの幸せを喜びながら、さとうをなめていらっしゃるのです。

県内初のコミュニティセンター

29.県内初のコミュニティセンター

中鯖石コミュニティセンターは、昭和46年自治省の指定を受け、全国40カ所の一つとして誕生しました。洪水を繰り返していた鯖石川を地域の力で大改修にこぎつけるなど、まとまりのよさが認められた証でした。
この施設は、中鯖石の10集落の人々が、スポーツや趣味を楽しんだり、地域の問題をみんなで解決していく場として大きな役割を果たしてきました。その後、中鯖石での成功をもとに、市内24カ所にコミュニティセンターが設置され、コミュニティ活動は広がりをみせました。

秀快上人の即身仏

30.秀快上人の即身仏

秀快上人(1719-1780)は、9歳で仏門に入り、奈良の長谷寺(現・真言宗豊山派本山)で20年間修行し、その後柏崎に戻り真珠院22世住職となりました。50歳の時、世の中の平和を求め、生きながら悟りを開いて成仏することを決意しました。五穀を断つ木喰業を10年余り続け、生前自ら建立した本堂裏山にある入定堂の石室に入り、真言を唱え鈴を鳴らし続け、弘法大師と同じ命日(3月21日)に年齢も同じ62歳で入定しました。1990年の学術調査では、真言宗の修法に基づいた、学問僧の即身成仏実証例と位置付けられ、貴重な学術資料とされています。

学塾 三余堂

31.学塾 三余堂

藍沢南城(1792~1860)は幼少期を現在の柏崎市南条で過ごし、青年時代は江戸で学業に励みました。その際学んだ経験を活かし、1820年、故郷南条に「三余堂」と呼ばれる学塾を開き、700余名もの弟子を世に送り出しました。「三余」とは、「年の余りの冬、日の余りの冬、日の余りの夜、時の余りの陰雨を学問の好機とする」という意味で、南条の学問に対する考え方を如実に表した言葉というこができます。なお、孫の雲岫は藍沢塾を発足させ、現在の柏崎高等学校の創立に貢献しました。

堀のふるど

32.堀のふるど

昔この池に大蛇が住みつき、田畑に作物を荒らし大暴れしました。困り果てた村の庄屋さんは、遠く離れたびわ湖の竹生島まで行き、そこの弁天さまに「村の難儀を救ってください」と一心不乱にお願いしました。願いは通じ、びわ湖の方から稲妻とともにやってきた黒い雲が、大蛇を連れ去っていきました。
民話の中では弁天池と呼ばれた、ここ「ふるど」のおかげで日照り続きでも近くの水田に豊富な水を送り、稲をすくすくと育てました。今でも地域の人々により、愛され、その美しい景観が守られています。

藤五郎狐の里

33.藤五郎狐の里

昔々、栃ヶ原の柿の木坂に一匹の古狐が棲んでいました。狐は、人を化かすので、村人は大変迷惑していました。これではいけないと、藤五郎という若者が、狐を退治しに柿の木坂へ出かけました。すると、老婆そっくりに化けた狐が現れました。藤五郎は知らないふりをして、狐をおぶってやり、自分の家まで連れてきました。そして、焼き殺そうと狐に火をつけましたが、逃げられてしまいました。でも狐がいなくなったおかげで村は平和になりました。(2003年度高柳中学校一年生作成)

常福寺裸押し合い撒与祭り

34.常福寺裸押し合い撒与祭り 東本町1常福寺境内

柏崎に春を告げる常福寺の撒与祭りは毘沙門天のお祭りです。まだ小雪舞い散る3月3日、五穀豊穣と身体健全の祈りを込めて年男たちによって撒与されるお供え物の米俵や桝などを裸身の若者たちが「サンヨ、サンヨ」のかけ声と共に押し合い奪い合いました。残念ながら安全上の理由から1966年以降、裸押し合い祭りは中止されましたが、若さと健康にあふれた裸身群像のひしめく祭典は勇敢であり感動的でありました。

弘法大師の茶の池

35.弘法大師の茶の池

昔、貧しい風体をした旅僧が一杯の水を乞いました。すると親切な老人が「この辺は海が近いので塩水ですが、それでよければ差し上げましょう。」と言いました。旅僧はなにしろ長旅で喉が渇いて仕方がなく「その水で結構」と言うので、老人は赤いお椀で水を差し出しました。旅僧は大そう旨そうに飲み、その余りの水を庭に静かにあけ、有難うと言って立ち去りました。その捨てられた水のところから、こんこんと水が湧き出し、その水は塩気のない真水でありました。この旅僧は弘法大師であったと言われています。

北半田六地蔵

36.北半田六地蔵

このお地蔵さんは、江戸時代に入って苦しい生活を余儀なくされたお百姓さんにとって、なんでも聞いて下さる大吉仏として心のよりどころでありました。天明元年(1781年)の話によれば、このお地蔵さんが「人通りの多い所へ出して欲しい」と、半田の安倍一郎左エ門に夢で頼みました。はじめは夢だと思って気にせずにいましたが、毎晩同じ夢を見るので、六社前(現・半田)から人通りの多い水上の地(現・北半田)に移してあげました。これが今の六地蔵であります。

燃ゆる水と草生水まつり

37.燃ゆる水と草生水まつり

西山町周辺は、昔から石油が産出されたことで知られており、また日本で最も古くから石油の機械掘りが行われた場所でもあります。「日本書紀」の中には、燃ゆる水を天皇に献上した記録が残っていて、妙法寺がその一つだと言われています。この燃ゆる水の湧き出ている所を献上場と呼んでいます。
西山町といえば「石油」であり、石油に関連した祭りとして八月に行われる「草生水まつり」があります。郷土の歴史や文化に根ざしたもので、献上する姿を絵巻物のように再現し、祭りは最高潮に達します。(2004年度西山町立西山中学校三年生文作成)

藤井堰と青山瀬兵衛

38.藤井堰と青山瀬兵衛

江戸時代初期、青山瀬兵衛という若い侍が刈羽郡奉行として柏崎に来ました。この頃の刈羽平野は水害と干害で田にならず、人々は苦しんでいました。瀬兵衛は、こうした人々を救おうと土地の様子や鯖石川の流れを調べ、藤井地区にある堰を上流の平井地区に移して、そこから用水路を掘って水を引き、多くの荒れ地を田にする計画を立てました。瀬兵衛はさっそく堰づくりに励みましたが、何回も大水で流されたので、苦心の末「鎧堰」を考えました。難航した大工事は10年がかりで完成し、この周辺は実り豊かな田に生まれ変わりました。

枇杷島城跡

39.枇杷島城跡

枇杷島城は南北朝時代に宇佐美氏が築いたとされ平城で、本丸、二の丸(東曲輪)、三の丸(金曲輪)からなり、本丸跡に県立柏崎総合高校が建っています。宇佐美氏は伊豆の有力豪族を祖とし、越後国守護上杉の家臣として、ここ越後に入国したとされています。城が存在していた頃、この地は周囲を蛇行していた鵜川と横山川に囲まれ、東側には鏡が沖という沼地が広がっていて、自然の堀に囲まれた要塞であり、平地としては防御性の高い場所でありました。

新花町と金刀比羅神社

40.新花町と金刀比羅神社

柏崎の花街は明治時代、現在の西本町にありました。西から風が吹く柏崎にとって、盛り場が町の西に位置するのは火種を常に抱えている状態であり、度々、大火に見舞われました。付近一帯の貸座敷が全て消失した。1911年の桐油屋家事を契機に、県からこの地に貸座敷運営許可が与えられ、四国讃岐の本殿より遷宮された金毘羅宮を基点に、遊郭や料理店などが新たに建設されました。度重なる火災を教訓として町の中央部に幅広く火よけ地を設けるという火災防止上画期的な街づくりでした。1949年には温泉が噴出し湯の町として発展、現在火よけ地は花壇として残り、華やかな街の面影を残しています。

石口広宗と矢田城趾

41.石口広宗と矢田城趾

この地には戦国時代、北条城主毛利氏の城代家老石口広宗の居城で、矢田集落の中央に位置する山城でした。本丸は東西20m、南北15mで、東西に大きく袖廓が取り巻く頑固な普請でありました。
広宗は1579年、上杉謙信の養子、景勝・景虎の跡目争い(御館の乱)で景勝に軍配が上がった後、上杉軍の猛将として各地を転戦しましたが、1582年、織田軍に包囲された越中魚津城にて、上杉十三将の一人として自刃しました。矢田城が城として機能した歴史は長くありませんが、私たちの遠い先祖が生き残りを賭けて戦場を駆け巡った時代が偲ばれます。

42 じょんのびの里 高柳

42.じょんのびの里 高柳

ここ高柳町は、黒姫の山間を拓き、鯖石川の恵みと深雪の風土に恵まれた静かな山里で、昔ながらのかやぶきの民家や、山里ならではの「棚田」が一面に広がっています。
夏にはホタルが幻想的な光の乱舞を見せ、秋には黄金の稲穂、また冬は見渡す限りの銀世界となり、清らかな雪どけ水が遅い春の訪れを告げます。
「じょんのび」とは「ゆったりのんびり」を意味する方言。「住んでよし、訪れてよし」のまち造りを大切にするこの地は、人々をいつでも「じょんのび」させてくれます。
2005年5月1日、柏崎市、西山町と合併し、新たなる高柳の歴史を刻み始めました。

43 清瀧寺 188霊場巡り

43.清瀧寺 188霊場巡り

ここ清瀧寺は阿弥陀如来を本尊に、717年に開基されました。31代憲精和尚が四国88番西国33番、坂東33番、秩父34番の礼所を行脚し、各本堂から頂戴したお砂と188の石仏を各々の霊場としてこの寺に建立してあります。霊場を巡り歩く事を「へんろ」といい、その昔、弘法大師が開いた霊場を遍歴したのが始まりと伝えられています。ここ清瀧寺では188の霊場を巡り歩くへんろ祭りがあり、霊場巡りは、今も昔も人々の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる旅として親しまれています。

西山町の歩み 西山町事務局前

44.西山町の歩み

西に雄大な日本海、東に西山連峰を控え、彩りあざやかな四季と豊かな自然環境に恵まれた西山町は、1959年朝日町と二田村が合併して誕生しました。
かつては北国街道の宿場町として栄え、いくつもの文化が花開き、古事記の神話を伝える大和舞は無形文化財に指定され、先人の残した伝統を今に伝えています。
1972年、日中国交回復を実現した田中角栄元首相の出身地であり、日本最大級の油田地帯として隆盛を極めた西山町も、2005年5月1日、柏崎市・高柳町との合併により46年の歴史に幕を閉じ、柏崎市として新たな一歩を踏み出した。

日本三大馬市 椎谷の馬市

45.日本三大馬市 椎谷の馬市

「椎谷の馬市」は、武勇の誉れ高い初代椎谷藩主堀直之公が馬匹改良を奨励したことが始まり、その後、日本三大馬市として、安芸の広島、奥州の白河と並び称され、安政年間(1854~1859)には売買のために8千頭から1万頭もの馬が集まったと伝えられています。
この馬市は、6月下旬から7月上旬にかけて行われ、この市に集まる博労(牛馬の売買を業とする人)は、最盛期には1万2,3千人にも及んだそうです。
また、この時期、馬に食べさせる青草を積んだ多くの草船で海が緑色になったとも伝えられています。
この馬市は、昭和の初め頃まで催されていました。

白亜双柱の塔(満州柏崎村の塔)

46.白亜双柱の塔(満州柏崎村の塔)

柏崎村開拓団は、旧満州国三江省(現・黒竜江省)通河県にありました。太平洋戦争中の1942年の国の政策のもと、市の要請に応えて新な柏崎村を開拓することを夢見総戸数45戸206名が満州に入植しました。
1945年8月8日に旧ソ連の対日宣誓布告、満州侵攻により多くの残留婦人、残留孤児を残しながらの過酷な逃避行を余儀無くされ、多くの人々が亡くなりました。この塔は、満州で命を落し日本へ帰郷出来なかった人の鎮魂と平和を願い1986年7月、日本海から中国を望むこの地に建立されました。

祇園祭発祥の杜

47.祇園祭発祥の杜

祇園さんの名で親しまれている八坂神社は11代垂仁天皇の御代に和那美水門祇園社として創建され、八岐大蛇伝説で有名な素戔嗚尊を祭神としています。現本殿は番神堂と同じく4代篠田宗吉が棟梁を務め、建立されました。
この地は柏崎中心の花街として長く栄え、お祭りの時は多くの参拝者で賑わい、人々は名物のお団子などを食べながら、花火を楽しんだと言います。その様子は「春は住吉夏祇園おばな祭りの諏訪の賑わい」とうたわれました。
お祭りは7月7日の始祭・例大祭・毎夜際・7月27日終了奉告祭と続き、御輿渡御は街中に夏を伝えました。

恋の懸け橋

48.恋の懸け橋

その昔、この地に「いもり」と「ながそ」の二神が住んでいました。「いもり神」には美しい娘がおり、「ながそ神」は、その娘を妻にしたいと申し出ました。
しかし、「いもり神」は乱暴者の「ながそ神」に娘を嫁がせることを快く思わず、「一晩で佐渡まで岩の橋を架けられれば娘を嫁にあげよう」と難題を出しました。
「ながそ神」は次々に岩を運びましたが、それを見た「いもり神」の策略により、朝が早く来たと勘違いしてしまい約束を果たせませんでした。
羅石尊は、「ながそ神」の霊であると信じられ、お参りをする縁結びや子宝にご利益があるといわれています。

えんま市

49.えんま市

「えんま市」は毎年6月14日から16日の3日間、閻魔堂を中心に西本町・ニコニコ通りから東本町の間で開催されます。えんま市は、柏崎納屋町(現在の西港町)で開かれていた馬市がその始まりといわれ、天保年間(1830年~1843年)に「閻魔堂の祭礼」として行われるようになりました。
かつてのえんま市では、サーカスや見世物などの興行も行われ、多くの人々で賑わっていました。
現在でも植木、遊戯、飲食などたくさんの露店が立ち並び、変わらぬ賑わいを見せるえんま市は、夏の訪れを知らせる柏崎地域最大の年間行事の一つです。

米山の伝説

50.米山の伝説

大昔、米山は五輪山と呼ばれ、泰澄という仏師がここで修業をしていました。泰澄は柏崎の沖合を通る船に鉢を法力で飛ばしては米などをもらっていました。ある日、米俵を山のように積んだ船に鉢一杯の米を分けてくれと頼んだところ、強欲な船首は米を一粒も分けてくれませんでした。
そこで泰澄が念仏を唱えると、米俵が次々と山頂に向かって舞い上がっていきました。困った船首が山に登り、欲深さを詫びたところ、米俵は見る間に船上に戻ったといわれています。以来、米の積み上がったこの山を人々は親しみを込めて「米山さん」と呼び、その時に刻まれた薬師が米山薬師と呼ばれ山頂に祭られています。